はじめに
閲覧にあたっての注意事項。本記事では一切のネタバレを気にしません。
また未プレイの方だけに留まらず、本作をクリアして余韻に浸っている、
またはまだ浸りたいという方やさくレットの考察より感想・批評に傾倒した記事をお求めとする方はブラウザバック推奨。
また本題に入る前に、というよりかはそれが雑駁なものにならないようにする為に一先ず導入がてらさくレットの感想(雑感)をさらっと済ませておきたいと思います。ご了承ください。
所感① ホームズ観を捨てよう
本作は当然ながら、エロゲ版『シャーロック・ホームズ』でも無ければ、それを模した作品でもありませんでした。
それもそのはず、所長というキャラクターはシャーロキアン達の抱くホームズ像とはあまりにもかけ離れていたからです。
また所長といえば、かのホームズとは違い浮浪者の伝手を使わないただの聞き込み調査、阿漕では無いにせよ重度の守銭奴、果てには迷推理(アララギは本人にそのまま言ってた)…といった諸所の場面がありましたが、なかんずく、次のこのセリフは決定的です。
これは、私のような人種に対して1章の時点で「お前のホームズ像を、この可愛らしい所長に求めるんじゃない。」と作者直々のお達しだったというわけです。NO MORE ホルメジアン。表面的には。
というのも固定観念というのは大変厄介なもので、ホームズ程有名かつ幅広く創作されている人物の像というのはここまで断言しないと乖離することができないんですね。この身で体感したのだからこれは間違いない。
そしてこの乖離を払拭にするべく、作者の「ホームズ像」と「所長」の切り離し作業はまだまだ続きます。
これは2章の冒頭、ルブラン著の怪盗ルパンシリーズの中でも傑作とされる『8・1・3』について所長の視点からこう述べられています。
所長「いくら名探偵の代名詞とは言えわざわざACDのホームズを登場させるのは、ホームズ人気にあやかろうとする意図に見えてしまってな……」
つまりは、作者曰く「本作はホームズ人気に肖る意図など無い」ということです。その節は大変申し訳ない。
また、ホームズという一廉の架空人物の個性であり欠点として傍若無人といいますか、無邪気さというものがありますが、人によっては少しばかし刺激が強すぎるかもしれません。
しかし、この部分をポンコツ可愛いにしてやることで、所長という存在は非常にマイルドな、斯界に馴染むよう通俗的なものにフィーチャーされたのかと思います。
ここで、少し前の話に戻ります。あえて「表象的には。」という含みのある表現を用いましたが、裏を返せば閾下的な効果もあるというわけです。これは前述しましたが読み手のホームズ像をのべつ幕無し「引き剥がす」こと。
含みのある表現…これに傾注することが、まずは本作においての歴史の裏事情を知る些細な手がかりになります。この点だけはお忘れのないように。
また繰り返し陳述された表現に着目することは本作に限らず、どの読み物においても大切です。しかしこの場合、表現間の距離を見誤らないよう注意してください。
すぐ傍に答えが設けられているとは限りませんので…
先入観を捨てようの項はこれでおしまい。
さて、ここからは本記事をお読みになる前の諸注意を交えつつ、本題へと半歩ほど切り込んで参りましょう。
所感② 作者の主旨は所長√に在らず?
本作において、所長√は物語の終着点でした。司にとっては本人自身もそれがハッピーエンドだと言っていましたね。
また所長…レベッカ√については、それこそひっきりなしに意見が飛び交われています。
例としては(これは中でも極端ですが。)戦乱真っ只中の現代・桜雲の時代背景から来る、社会風刺としてのメタファーを介しての我々への想起だとか、
桜と屍は対比構造となっており境遇が違えば司と加藤の立ち位置は「逆だったかもしれねぇ…」など。(しかし、こちらについては作中において別の形で要約引用がなされています。後述。)
或いはレベッカの英語圏での愛称はベッキィで、更には蓮√のある会話においても輪廻転生について触れてたことからマリィは所長の生まれ変わりではないか?
という希望に満ち溢れたものも中にはありますね。
(といったように上記のものは他の方がとっくに自前の考察を肴に、それぞれのシートの上で満開の桜の下お花見を楽しんでいます。なおそちらは土埃なぞ立たない大変絢爛なシートですから、ぜひそちらを参照されたし。)
因みに絢爛という言葉に嫌味や建前はありません。
というのも、本記事というのは、いうならば美しい櫻の木を返り血塗れにしていることは気にも留めず、その下の存在が何たるかを詳らかにすることに傾注し、実態にメスを入れるような行為に及んでいるのです。
ですからそんなものはホームズが美術と形容した自身の習作*1ではなくて、例えるならじゃじゃ馬のごとく登場した三枝マイの視点で見るUDIラボの解剖調査や渡海先生の執刀現場、とした方が収まりがいいかもしれません。どどめ色の研究
…聊か託けが過ぎましたので、ここいらで軌道修正しましょう。
本作は歴とした読み物ですから、様々な解釈がなされていいはずです。
しかし、だからこそ読み手が所長√を本作品のハッピーエンドと見做した上で、更に梶井基次郎の「櫻の木の下には」をこのルートの内容のみと結びつける行為…これについては尚早ではないかと、烏滸がましいのは重々承知の上で進言させていただきます。
櫻の木の下には屍体が埋まっている!、これは本作において栄枯盛衰を意味しているのではないのか。これでは抽象的ですね。
では、屍体とは作中の何を隠喩しているのか。
所長√にて彼ら彼女らが生きた100年間の集積?関東大震災やWW2といった激動の時代もありましたから、こういったマクロなものとでも捉えるべきでしょうか。
ですが、これらと似たような解釈でしたら既に本作の冒頭で所長が滔々と読み耽っております。
つまり、そんな事実は火を見るよりも明らかで、わざわざ白日の下にさらしてやる必要などないのです。
無論、きっかけやヒントとなり得るかもしれませんので一考の余地として記憶に留めておく必要はあります。
しかし、これはあくまで彼女という一登場人物の意見。
作者自身のこの詩に対する独自の解釈を投影させている、定立なるものが実は目下に落とし込まれているのではないかと彼是思案するのが考察の醍醐味でしょう。
「君は見ている、でも観察していない。その違いは明らかだ。」
…これはホームズの名言の一つですが、物事をなぞるのではなく観察するとなると、それを矯めつ眇めつしなくてはなりません。
その上で、この作品の本質に触れることが本記事の趣意の一つでもあります。
また本作において最も重要なヒロインと言えば、今のところ大多数が所長とされているはずです。
しかし、本記事で注目するのは…意外に思われるかもしれませんが、この人物になります。
というわけで、大変お待たせしました。
ここから四人の署名ならぬ、四つの提題に沿って独自の観点から作中では明かされなかった複数の謎…これらについて触れつつ都度その見解を述べていこうと思います。
ぜひ、最後まで楽しんでいただければ幸いです。
考察① マーガレットの花言葉
物語の中では明記されなかった伏線のようなもの、その1。
前述した通り、ベッキィとは英国圏でのレベッカの愛称で、ベッキィは現代(未来)で風見司が飼っていた猫の名前でもありました。
しかし、それ以外のヒロイン達の名前にもそれぞれ意味が込められていることをご存知でしょうか。
レベッカについては少々特殊ですが、蓮とメリッサには関連性があります。
それは彼女らの名前が花の名称に由来しているということですね。それでいて、この二人については各々の√にてしっかりと明示されています。
取っ掛かりとしては、メリッサ√だとこのシーン。
また、蓮はメリッサ以上により深い部分まで掘り下げられています。
作中では明示されていませんが、蓮という言葉には「淤泥不染の徳」など水上蓮というキャラクターそのものを言い表しているような意味も有りますね。
続いて、それぞれの花言葉を書き起こしてみることにしましょう。
- 蓮 → 一蓮托生、清らかな心
- メリッサ → 思いやり、共感
花に因んだ名前を持っているヒロインは他にもいますね。…アララギ*2、苗字も含めれば三枝マイもそうです。
しかし、ヒロインの中で唯一仲間外れ…名前に意味を持たない人物がいます。
それが遠子なのです。
ここでホームズ的な推察…要は帰納を用いて名前の法則性を明かし、遠子だけがそれに該当しないために、次はこれが意図的なものかどうかを判断するために一応目星をつけておくことにします。
ここで、遠子√のデートを振り返ってみます。
すると、彼女を花に准えたがセリフが出てきました。果たしてこれは偶然でしょうか。
では次にマーガレットの花言葉を探ってみましょう。
マーガレットの花言葉には「(私を)忘れないで」、(「優しい思い出」)という意味があります。
そしてそれは、桜の花言葉にも同様の意味が存在します。
それは、Nem'oubliez pas(ヌ・ムビリエ・パ)
日本語に訳すと「(私を)忘れないで」
これはマーガレットと同じ「忘れないで」、という意味を持つ桜の花言葉なのです。
またマーガレットにはその可憐な見た目とは裏腹に、死臭のような強烈な香りがすることでも有名です。
この二つの事実は、どことなく梶井基次郎の書いたあの詩を彷彿とさせますね。
もし現時点ではそうでもなくとも、取り敢えずこの花言葉の意味を忘れずに覚えていただければと思います。
考察② 司と加藤大尉の対比
物語の中では明記されなかった伏線のようなもの、その2。
人によっては、加藤大尉の背景がまるで語られなかった点は釈然としないのではないでしょうか。
これは私事になってしまいますが、要約引用など無しで読み手の解釈に委ねる行為…所謂「ぶん投げ」や「丸投げ」の類が少々苦手なので、精緻されている本作だからこそ、こういった曖昧な部分にはしっかりと切り込んでいきたい。
加藤大尉の歪んだ正義感、使命感の発症源は語られず仕舞い。
しかしそれが後天的なものなのか、生まれつきなのかによって彼の人物像は大きくブレてしまいます。諸悪の根源だというのに、この点…Who(人物像)もWhy(動機)もHow(環境的要因)も不明瞭なために憶測で読み取ることしかできません。
このような台詞から、後天的な要因で彼の人格が変わってしまったのではないかとも考えられるため、これが一層むず痒くする。一体どっちなのだ。
ところで、作中1章の「マリモ探し」の際に登場した『双子の星』という詩を、読者の皆様は覚えていますでしょうか。
梶井基次郎の『櫻の樹の下には』とは違い、作中において特には言及されていないまま終わった伏線のような"何か"…そんな宮沢賢治の童話"双子の星"の役割とは何だったのか。
本項ではこれについて考察していきたいと思います。
下記は引用ではありませんが、この双子の星の粗筋…これを更に大まかに表しますと
二人の主人公(チュンセ童子とポウセ童子)は、清廉潔白な精神を持つ人物です。
そんな彼らは旅路の途中において正に「情けは人の為ならず」の精神に則ったような、損得勘定抜きの慈善による人助けをします。
そしてこの人助けは後になって思いもよらない形で彼らを助けてくれるのです。
また、「情けは人の為ならず」という慣用句自体は作中でさり気なく使用されていますが、一度のみならず繰り返し陳述がなれていますのでここで取り上げてみましょう。
この言葉は事後的に使用されるもので、ひいてはカントの定言命法の通りですから実践するとなると極めて難しいことなのです。
しかしながら、所長はこの理論というか理念を能動的に実践し、そして一挙手一投足を司は見聞きしています。
また、所長の本質的側面…その起源については、師の啓発によるものであったことは回想で明かされていましたね。
画像のように、所長らの美徳…人助けは仲間を生み、結果として物語の最後では司と加藤の周囲の差という直接的な対比に至るわけです。
また、前述した「彼らを助けてくれる…」というのは、童子達は物語の途中で不幸に見舞われてしまいます。
これは慈悲深い童子達を陥れたのはその対比となるようなキャラクター、彗星の仕業によるもので、彗星が童子達を貶めます。
ただ、双子の星はあくまでも童話ですので、その役割としては誰でも一目で悪者だと分かる様に描かれています。
加藤大尉を彗星の体現と見做すことはどうにも難しいですが、四章において彼は治安維持法を制定するなどと豪語していますから、性根が腐り切っていた可能性の方が高いでしょう。
そうとすれば、散り際における彼の「櫻井、私はどこで誤ったというのか…」というセリフや
加藤大尉の消失後、雪葉の
などの思わせぶりな台詞群。
しかし、前者は自身の存在を八紘一宇を実現し得る絶対者だと信じて疑わないからこそ出てきた言葉であり、後者は命を救われていることから来る心酔、若しくは忠誠心に準ずるものだと判断できます。
したがって、残念ながらどう転んでいたとしても彼は自分自身が歪みきっているという瑕疵に気づくことはないでしょう。
逆に加藤が「実は彼にも事情があって…」ということでしたらお手上げです。
(もし仮に加藤大尉がE・H・カー著の『歴史とは何か』に続いてニーチェ著の『善悪の彼岸』を持ち出したりでもしていれば、今一度見解を改める必要があるというものですが。)
とりあえず、そうでは無かった体で再び話を進めましょう。
どこかの台詞を拝借するなら、加藤大尉は「自分を悪だと気づいていない〜」、とか「全てが正義だ」等に該当するやつです。
正に"歪み"ですね。
ここで、メリッサ√のこのシーンを振り返りましょう。
正義感の履き違えについてはこの場面の柳楽の犯行を通して言及されていますし、作者はやはり加藤大尉をオジマンディアス(ウォッチメン)のような『反悪役』として描いたように思います。
ともあれ結局、本作には関与しなかったと思われた双子の星も「司と所長」と「加藤大尉」の対比だと解釈すればぴたりと合致するわけです。
つまりは本作の概要を表現したストーリーなわけですから、夙に宮沢賢治は本作を童話として書いていた…とすると実際には作者様の盛大なリスペクトであったことがわかりますね。
(余談ですが、双子の星の物語に出てきた彗星の末路はナマコである。無論、現世において司は人のままですし所長はマリィという子孫を残しましたが、加藤大尉に限っては人畜無害なナマコとしてひっそりと現代を過ごしているのかもしれない…?)
考察③ [枝を渡る]の喪失
物語の中では明記されなかった伏線のようなもの、その3。
まずはホーム画面の変化に着目してみます。
続いて、クリア後のホーム画面に着目してみましょう。
画像の通り[枝を渡る]が消え、初期の[?????]に戻ってしまいます。
司が現代に帰る前に、このような描写があったことを覚えているでしょうか。
タイムマシンを破壊したことは、則ちアララギが喪失したということ。
これにより、作中でも屡々起用されていましたシュレディンガーの理論に基づけば観測者自体がいなくなります。
(前提として、司は記憶を引き継いでいませんし我々の視点というメタ的要因は本作に介入することがありません。)
生と死の重ね合わせという2つの蓋然性がそもそも存在しない…それはは枝というIFの世界の蓋然性の抹消であるということ。
畢竟するに、[枝を渡る]ことが不可能になったということは、単純にユーザビリティの欠如などではなくて、観測者が消え枝は正史なるものに統合されてしまった、この事実をまざまざと突きつけられているとは考えられないでしょうか。
それはつまり遠子が、蓮がそしてメリッサが幸せを掴み取り、歩み始めた時間…そして過ごした人生はその蓋然性ごと虚へと葬り去られ、何処にも存在していない、ということに他なりません。
そしてここから漸次的に『櫻の樹の下には』の内容に触れていくことにしましょう。
アララギの運んだ電報によって所長√の現代は存在するに至りました。
これを例えるなら平和な世界に咲き誇る満開の櫻。(当然ながら、これはポジティブな意)
しかし、それを支えたのは他でもない、無数の屍体の恩恵があるからこそなのです。
そうとすれば次のこの場面は、屍体が美しい桜の養分に還元された、ともとれますでしょうか。
このメリッサのセリフの背景には桜の枝が使われています。
過去の会話で桜の枝は平行世界のメタファーとして表現されていましたから、加藤大尉が消失したことによってIFの世界(他√)もまた同時に消失し、メリッサの視る道筋(所長√)が明瞭化したということでしょう。
さらに屍体の発生源についてはこのような言及がなされています。詩の抜粋されたこの部分に注目してみましょう。
「"いったいどこから浮かんで来た空想かさっぱり見当のつかない"屍体」
歴史をなぞっただけでは出やしない、そもそも所長√以外の枝は結果として歴史どころか過去ですらないわけですから、これに対しての目視できない空想という言葉は、正鵠を射た表現に自ずと変化します。
それは、正しく『目に見えるものだけが真実とは限らない』というわけです。
この言葉についても所長や遠子の発言を通して作中で度々用いられていました。
(少々前の記述にまで遡りますが、『櫻の樹の下には』を所長√の内容のみと結びつける行為について尚早などと言ったのは、本作とこの詩との相互性を理解する為にはそれだけだと不十分というよりか、外延的側面だけで納得してしまうのは勿体ないと感じたからです。)
そのことが起因しているわけではないのですが、個人的に所長のこのセリフは一目見た時から好きです。
「回り道」をしないことには気づけない真実…それが是か非かはともかく、本記事ではこれまでに『ヒロインの名前』、『双子の星』、そして本項では『枝を渡る』などを根拠と絡めつつ述懐しました。
しかし、回り道をしなければ気づけない事実はまだこの他にも存在します。
そしてそれは、作中で引用されたとある著作と本作との相互性を理解する上で欠かせない場面です。
そんなわけですから、ここまできたら余すことなく追求させていただかないと。最後の項では再び動物園のデートに立ち返ることにします。
考察④『歴史』とは何か。その答えは『〇〇〇〇』
作中で引用されたE・H・カー著の『歴史とは何か』
この著作の物語の機能としては、加藤大尉の人物像…歪んだ思考を明るみに出すための材料なだけに過ぎませんでした。しかし、本考察でも取り上げている通り、それだけに留まりません。
(余談ですが、加藤大尉が『歴史とは何か』を援用…もとい誤用したのは司が記憶し得ないはずの第四章の出来事です。しかし、この場面の会話で司は…)
これ以上は触れますまい。というわけで、まずは著作の中でも本作で色濃く反映されているであろう内容を抜粋します。
『歴史上の事実は、何しろ、歴史家がこれに認める意義次第で歴史上の事実になるわけですから、完全に客観的であるというのは不可能であります。』
また
『歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである。』
では、逆に歴史上の事実でないもの、歴史家の心が投影されていないものというのは一体何なのでしょうか。
それこそが
というセリフ、上述した引用部への作者様なりのこの応答でしょう。
ではそもそも自然主義とは何かですが、これは次のような理念を指します。
『現実のありのままを,まったく客観的な立場で観察し描写する芸術的態度や手法』
或いは
『自然の事実を観察し、『真実』を描くために、あらゆる美化を否定する。』
とされる。ここでいうあらゆる美化とは、この画像の通りでしょう。
つまり自然主義のあらゆる美化を否定するというのは、主観性を排斥するということ。
先程引用した文をよく吟味した上で、作中においては画像のように上手く要約がなされていることが分かりますね。
このことからも「歴史とは何か」の脚本家様なりのレスポンスとして、自然主義という表現をなされているのは大変秀逸。
この言葉が、本作のアフォリズムといっても過言ではないでしょう。
続いて、『歴史とは何か』の《歴史は現在と過去との対話》は著作において次のような言い換えがなされていますのでこれも抽出してみることにします。
『歴史の二重の相互的機能──現在の光に照らして、過去の理解を深め、過去の光に照らして現在の理解を深める』
本作においても、前触れなく用いられた"自然主義"を加藤大尉に対する司の主張「歴史とは何か」の抜粋で照らし、次にそれぞれの位置関係を逆転させることによって初めて双方の意味が際立ちます。
則ちこれが、相互性なのです。これは『歴史とは何か』の応答が『自然主義』であったように、物語を体系的なものにする作用があります。
この作用は他の場面においても発揮されています。
これは前の項でも触れた、『双子の星』を介してなされた司と加藤大尉の対比も該当しますが、『歴史とは何か』を通じても同様の言及されています。
司「(この時代に生きる人たちのことを歴史上の登場人物か何かとしか思っていない。)」
この価値観が歪んだものであることは、既に蓮√において言及されています。
司「(それは言うなら、自分と異なる世界に生きるキャラクターを眺めるような目線で。)」
つまりはこの凝り切ったバイアスを払拭しない限り、人の心など汲み取れるわけがないのです。
歴史を改変するということは我田引水、すなわち未来を自分好みの色に塗り替えたいが為に他者の人生を踏みにじるということ。
この事実に気づけない加藤大尉は正にエレメンタリィから間違えていたというわけですね。
(かのアリストテレスは徳の至上を個ではなく集団を満足させることに求める共通善だとしましたが、これを拡大解釈してしまうと上記の様な歪んだ価値観を生み出しかねません。
徳の定義は昨今においても難しいですが、個々の主観が混ざることのない「情けは人の為ならず」…所長の大切にしているこの価値観については徳だと言えるでしょう。なぜなら、本質を作るのは何時だって実存なのですから。)
また直前にバイアスを払拭しない限り、人の心など汲み取れるわけがないと陳述しましたが、これとほぼ同じ内容のセリフが作中に存在します。
所長「人生を無視したロジックは──人の心には響かないんだ。それは、歴史をなぞるだけじゃ読み取れない。」
これは所長の口から発せられた「何となく格好いいセリフ」などでは決してなく、裏付けを理解することで初めてこの言葉の重みなるものを理解することができます。
そしてこのセリフの掘り下げをするには蓮√だけでは足りません。別の観点からも切り込む必要があります。
歴史をなぞるだけでは読み取れない、他者がなぞることのできない「人生」とは何なのでしょうか。これが"ありのまま"描かれている場面が自然主義と称されたあのデートだったのです。
司「…そうですね。記録なんか残せなくても──この時代(いま)を精一杯生きる権利が、俺たちにはあるんですから。」
遠子の人生観に感化され、今をありのままに生きればいいと悟った司。「大事なことを忘れかけていた気がする」というセリフからも分かりますが、このデート以降の司はテロを阻止する行為…能動的に新たな歪みを生み出してしまうことはきっと無いでしょう。
遠子「はい。私は、あなたと見る現実(いま)が一番大切です。」
このセリフで「いま」が「現実」というニュアンスなのは、後にこの現実が正史(所長ルート)によって否定(上書き)され、空想に帰すことになるという示唆のようにも感じます。
またここで、前述したマーガレットの花言葉の意味をもう一度思い出してみましょう。
『忘れないで』…それが指しているものは、淘汰されてしまった他の枝…"生きた軌跡"に他なりません。
上の画像など、要所において繰り返し陳述がされている生きた軌跡は「情けは人の為ならず」以上に傾注すべき言葉です。
前述した通りE・H・カーによれば歴史とはそれを人間の主観によって取捨選択された過去の一側面ですが、画像のようにランドルフを剥製として残した彼らの軌跡なる過去は歴史に還元されるようなことは決して起き得ません。
つまりそれは、非流動的な個々の人生があらゆる美化を排除した視点でなくては読み取れないという証左なのです。これがレガシー *3 という暗い観念から最も遠い場所に位置する存在に対して、"生きた軌跡"と称されている由縁でしょう。
ですから、
私は本作における満開の櫻の樹を司が行き着いた平和な現代とし、その下に埋まっている屍体を"生きた軌跡"と解釈することにしました。
終わりに
人生は"生きた軌跡"に留まらず、更にこのような言い換えもなされています。
「そんなチグハグな情緒もまた、俺たちが人間である証らしくて」
縺れた情緒が逆説的に人間を人間たらしめる一つの原因であるとするのは、サルトルの「実存は本質に先立つ」という言葉を連想させます。
いつかの蓮√では「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの言葉が出ていましたが、この明喩はシンプルですが洗練されているもので「確率論」に沿った論理…エヴェレットが提唱した多世界解釈等をなべて一蹴します。
ただ、「この枝でなければ実現しえなかった世界」の内の一つの在り方をありありと眼前に映し出されてしまうと、どうにもボーアらが打ち出した『コペンハーゲン解釈』の方を支持したくなりますね。
つい先ほど「実存は本質に先立つ」という言葉を述べましたが、つまりは人間らしさを追求することが人生なのであって、この価値観の前には後世に何とか爪痕を残さんとする野心家やそれを見て俎上に載せるインテリゲンチアの存在はどこ吹く風なのです。
というわけで、本考察は以上になります。
いかがでしたでしょうか。
では最後に、先ほど伏せていたこの金言でもって、本考察を終えたいと思います。